詩の覚え書き
悲しみの氷雪。風化を撒き散らしていく。
花瓶
「鑑賞物である花瓶や花」になったような気持ちが美の正体だと思う。花瓶は窮屈でたまらずまた花を見るならざわついて堪らない。そこに人は自身を投影させあるいは希望を押しつける。愚かな人間。しかしそんな業から私自身も逃れられてはいない
横顔
なにか人理を超えたものがその横顔を通り過ぎる。鳥がとぶ影のやうに、瞬間のきらめきを頬にのこす。私は驚き、まじまじと見つめるが、その時にはすでにその煌めきは通りすぎている。
幸福
「あなた、希望をびりびりに引き裂いてやりたくなることはありませんか」「幸福を、自分を救う手でさえも、立ちくらむような眩い光でさえ 踏みにじってやりたくなることは?」「私は怖いのです。幸せになることが怖いのです」
潮
私の心には自然、暗い情念が満ちる。巌に満ちる黒い潮のように。愛と死、善意と残酷、花と暗闇。凍りつくような冷たさのなかをその面影だけが冷えたつま先を暖める。
心臓
その人は驚いたようにこちらをみてそれから放心した。目をあわせて話すあいだも何かものめずらしい絵画をみるようにこちらをみていた。こう言うとき、いつも物悲しい。それから、心臓をとりだしてみせてやりたい。この憎悪と嫌悪と、いやらしい獣性で腐ったこの心臓を
他人に関心がない件とランジャタイについて
他人に本当に関心がない。
いや関心はあるのだが、社会人になってから実生活の中で他人の本音や心情にまで踏み込む関係になることがどれほどあるだろうか。
社会生活ではどうしても表面的な話になる。
興味があるふりをするのも疲れる。しかし他人の根幹にかかわるような話題をぶっこむのは失礼に値する。
むしろリアルに会うよりも、ネットやTwitterなどで話したほうがその人がよく分かる気がする。
なのでむき出しの人間が好きである。本音ばかり話している人間、そうした人間が落ち着く。
とはいえ私自身、自分のことは話さない。というか自分自身を把握していない。いつも「どんな人なの?」と問われてそれを口に出すたびに「あれそうだったのかな?」と違和感があり、嘘を話しているような気分になって気分が悪い。
リアル社会の息苦しさは、誰も彼も本音を言わないところにあるような気もする。
前にオードリーの若林や、クリーピーナッツの松永がむき出しの本音で語る部分があって好きだった。いまはランジャタイや爆笑問題が、忖度しない無軌道さをもっているので見ていてスカッとする。
国崎という人は、どこか昭和のスターのような雰囲気がある。不思議な人達で、最近よく見ている。
過去の記憶「母を亡くした高校時代の知り合い」についての思い出。
高校時代、母親がお亡くなりになったという知り合いの女の子がいた。
前から少し悩んでいる様子があり、亡くなってから事情を知った。
少し前から、突然走り出してはしゃがみ込んで塞いだりしていた。
それは「もうすぐ母親が死んでしまう」という悲しみからだったらしい。
母親を亡くすというのはどういうことなのだろう。
私は母親と仲良くはなかった。憎まれていた。
日々無視され馬鹿にされていた。
その子が塞ぎ込んでいた理由を知って、
母親が死ぬということを悲しめるんだなと新鮮に思った。
その子は、私にむかって「私の悩みって、○○(私)の悩みと比べれば大きいよね」
と言っていた。
その子の悩みというのは「母親の死」のことだ。
私の悩みというのは何をさしていたのだろう。私はその子に悩みを話したことはない。
その子に「私は母親が亡くなっても何も思わない。むしろ爆笑してしまうかもしれない」と打ち明けていたなら、どんな顔をしただろう。
その子の言葉は、「わかりあえない」という断絶を示していて面白かった。
ただ「私の悩みって、○○の悩みと比べれば大きいよね」という言葉は
何年もたった今でもなんとなく苛立ちとともに思い出す。
母親が死ぬ悲しみを知ることと、母親が死んでも何も感じないということ。
今でも「人との断絶」の象徴として思いだす出来事だった。